久留米高女での「第九交響曲          元3年7組 山口 淳
 私は、久留米市役所の文化財保護課で、やれ古文書だの古美術だのを扱う仕事をしています。そんな課に時々大坪純一君が現れます。彼も決して好んで来ている訳ではない事は、彼の顔つきを見れば直ぐに分かります。そう、建築設計を生業としている以上、時には「発掘調査」なるものに「ひっかかる」こともあるので、やむなく事前の手続きに来ているのです。私も同窓生のことですから邪険に扱うこともできません。で、「係りが違うから」と言いつつ、優しく微笑むことにしています。
しかし、先日その大坪君から「47会のホームページに何か書く」ように話がありました。彼とはひょんなことから明善の同窓会館で会うことがあり、その折に「彼も知っていてくれたのか」と思いながら話をしたことがありました。それならばどうか、と聞けば、良としてくれたので、仕事柄かかわったことを書くことにしました。それがタイトルのごとく、大正8年12月3日に久留米高等女学校で演奏された、第九交響曲とドイツ兵の話なのです。ご承知の方も少なくは無いでしょう。


1次世界大戦と「俘虜収容所」
 年末にはなぜか恒例となっている、あのベートーベンの「第九交響曲」。それが始めて日本で演奏されたのは、大正7年6月、現鳴門市にあった「板東俘虜収容所」だったそうです。このことで鳴門市では毎年ドイツフェスタが開かれていますし、なによりもドイツ俘虜収容所を記念した「鳴門ドイツ館」が設置され盛んな活動を行っています。

さて、そもそもドイツ兵の「俘虜収容所」とは何なのか。私たちが高校のときに習った山川出版の「日本史B」によれば「・・アジアにおける諸権益を拡大しようと考え、日英同盟を理由に同月対独宣戦を布告した。かくて、日本は3ヵ月ほどで青島や独領南洋諸島を占領し、・・」と書いてありますが、大正3年8月、日本は第1次世界大戦に参戦します。その主な攻撃先が、ドイツの東洋の拠点であった中国青島(チンタオ)の要塞だったのです。この攻略軍は当時久留米にあった第18師団を中心とする「独立18師団」だったのですが、こと日本にとっては、当初から勝利が分かっていた戦争でした。このため陸軍省ではすでに同年9月には「俘虜情報局」を設け、戦争捕虜の受入準備を始めます。併せて、国内にいくつかの「俘虜収容所」を設置することとなるのです。その中の一つが「武士道的精神を持って」俘虜に接した松江豊寿収容所長と共に著名な模範的収容所であった「板東俘虜収容所」だったのですが、当時捕虜たちは板東に限らず、音楽・スポーツ・演劇などの活動を行い、時にはハイキングなどの外出さえ催されました。久留米にも収容所が設置されて最多では1319人のドイツ人将兵達が収容されていたのです。この「久留米俘虜収容所」および捕虜の全体像のことは、近年ようやく分かってきました、久留米市史や文化財保護課が出版した「久留米俘虜収容所」報告書3冊に詳しいので、ご興味がある方はこれを紐解いてください。

エルンスト・クルーゲと久留米高女での演奏
 私達が在学中に創立90周年の式典があり記念の「湯呑み」をもらいましたが、その折に出版された「明善校九十年史」には「久留米高等女学校同窓会史」を引用して、次のような記事があります。

 「大正八年(一九一九) ドイツ俘虜との交歓会  二月(実際は12月)三日
 午後一時ドイツ俘虜四五名が今村中尉、青山通訳官等に引率せられて来校し、生徒の薙刀術を参観し、終って彼らによる音楽演奏を校内で催した。本校(久留米高等女学校)職員生徒のほか、前校長及び学校に関係のある将校夫人等多数来聴し、なごやかな交歓の時を過して、午後四時閉会した」


 この演奏会は、大戦が終わり捕虜達の解放間近になった折に催されたものですが、最近この様子がもっと詳しく分かることになりました。それはこの演奏会に第一バイオリンとして参加した(久留米収容所に収容されていた)ベルリン出身のエルンスト・クルーゲの日誌・写真などが、ご子息のクリスチャン・クルーゲ氏から久留米市に寄贈されたからです。この日誌の抄録は報告書に載せていますが、名文・名訳を引用しましょう。


 「・・・最後の数週間の騒ぎの中で、いくつか嬉しい出来事もあった。12月初旬に我々のオーケストラが久留米の女学校から講堂でコンサートをして欲しいとの招待を受けたのだ。事務所が「30人と16の楽譜台」の許可を与えたので、ある快晴の朝、驚く事に歩哨なしで、陸軍軍曹一人に率いられて女学校へ出かけた。我々はとても気持ちよく迎え入れられた。始めに会議室に通され、そこで校長が訓辞を述べて大変親切に挨拶してくれた。それから女の先生方がコーヒーとケーキを供応してくれ、次に校長が学校は「謝礼」は出せないがその代りに感謝の印として古来の女流剣道(薙刀のこと)をお見せしようと言った。そのため我々は体育館に案内され、剣道の師匠の指揮の下で演習が行われた。それを描写するのは難しいが、そのこなれた愛らしい動きは我々に大きな喜びをもたらしてくれた。そして立派な講堂へ向かう。そこにはもう全部用意ができていた。少女たちは自分のベンチに座っていたが、皆とてもお行儀よく、お手々を重ねて、これから始まる出し物を待ち焦がれていた。プログラムはドイツ語で印刷してあったので、それぞれの出し物の前に通訳が黒板に題名や作曲家に相当する言葉を書いた。さて、コンサートが始まった。聴衆は座ったまま指揮者にお辞儀をしたので、たくさんの桃色の顔の代りに突然色とりどりの背中と黒髪でいっぱいになった。少女たちが本当に音楽を楽しんだのか、ドイツのお客様に礼を尽くそうとしただけなのか、私は分からない。とにかく一曲ごとに、割れるような、しかし統制された拍手が起こった。そしてプログラムは長かったのに、最後の瞬間まで緊張して注目が保たれた。それどころか特別演奏項目もあった。小さな音楽家の少女がある楽譜を持ってきて、はにかみながら「この曲」を演奏してくれないかと尋ねたのだ。それはシューベルトのセレナーデだった。通訳がそれを黒板に書くと、席中にどよめきが伝わった。アアとかオオと言う声や囁き声がした所を見ると、この曲は明らかによく知られているらしかった。拍手もそれに相応してもっと大きかった。コンサートの後、またコーヒーとケーキが出て、校長先生のお話があり、一人ずつ献呈の辞の付いた絵葉書を記念にもらった。・・・・」

日本人の初めての「第九」
 久留米の俘虜収容所は当初梅林寺や日吉町三橋耳鼻科の所などに在ったのですが、大正4年6月からは国分町の現久留米大学医療センターの駐車場辺り、当時の陸軍衛戍病院の一角だった所に統合されています。捕虜と言う厳しい環境の下だったことは言うまでもありませんが、当時の国際条約に従って扱われていました。このため先に述べた様に収容所内では、音楽・演劇・スポーツ活動が行われ、高良山・桜の発心公園等への遠足、筑後川での水浴なども行われています。また現アサヒ・月星等の工場へ雇用などもされています。

 大正3年10月から8年12月まで、5年間に彼らが当時の久留米の地で過してきた様子や、久留米へ落として言った科学技術や文化が、90年の歳月を経ておぼろげながらよみがえってきつつあります。その中に久留米高等女学校の演奏会があったのです。横田庄一郎氏はその著書『第九「はじめて」物語』の中で、この久留米高等女学校の演奏会を指して、「まさにこの一九一九年(大正八年)十二月三日こそ、日本人が初めて第九の真ん中の二つの楽章を聞いた日だった」と書いています。つまり、その「日本人」こそ、久留米高等女学校の生徒と職員だったのです。

おわりに
 もちろん、このことを記憶する人はほとんど絶えてしまいました。しかし、伝えていくことが再びできるようになりました。私が、たまたま仕事柄このことに幾分かタッチすることができたのも、個人としては喜ばしいことですが、より久留米にとって、この捕虜達の歴史が深まっていくことを願っています。振り返れば、在学中の合唱コンクールで男子のみのクラスにて、この「歓喜の歌」をドイツ語で力強く歌ったのも何かの啓示があったからではないでしょうか。

 クリスチャン・クルーゲ氏は、昭和56年、父エルンスト・クルーゲ氏の足跡を尋ねるために来久されています。その頃は、収容所のことがほとんど分かっていなかったので、あまり得るものが無く帰国されています。しかしいくらかのことが掘り起こされ現在、そんなことも含めて、久留米高女のお礼が、今の私達で出来ないものだろうかと、一人思っています。

 最後に、彼ら俘虜たちへの哀慕と尊敬の意味をこめて、競輪場内に残る、久留米で死去したドイツ兵捕虜達の墓碑に記された銘を紹介します。
 運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり、黄泉の国に去った汝ら
  故郷はるかに遠く逝った同志たちの思い出のために
(古賀幸雄氏訳)」


※管理人は明善同窓会広報委員会に所属しており、高女の先輩から直接この話しを聞きました。時を同じく久留米商工会議所青年部にて久留米物語委員会に所属し、市内の歴史ある企業を調べていく中に、このドイツ俘虜のゴム産業への多大なる貢献を知りました。また日経新聞への特集記事が高女の先輩達の心に誇りと感動を呼び覚ましたようです。これらの事柄は、ほとんど同時に知り得たことです。教科書では習わない歴史を知った喜びを山口君にお願いして執筆していただきました。
 文化財の発掘がただ単純に土を掘り返すことではなく、歴史の検証をしていくことだとビートルズの歴史を見ていて知っていたことだけど、身近なものだとつい疎かにしていました。試掘調査に立ち会うことの面白さも教えてもらいました。仕事柄、申請書類を提出するのはやや面倒ですが・・・