第5回明善同志47(どうしょんな?)会へ参加してくれた皆さんにまずお礼を申し上げます。
20年前(1985年)に第1回を開催したことが、昨日のことのように思い出されます。1972年春、明善高等学校を卒業後、こぢんまりとしたクラス会が約10年間継続されてきました。20年前のとある日、友人の一人が「お前が幹事ばせんか!」との鶴の一声から、なんとなく10数名の仲間が南薫町の魚宗に集まり、翌年正月に全クラス合同の同期会を開催することに決定しました。これが、明善同志(どうしよんな?)47会の元々の発端です。その後の経過はHPの設立趣旨をご覧いただきたいと思います。
この20年間を振り返れば、5年前(2000年)は、コンピューターの2000年問題があり、関東在住の仲間が帰省できない。そんな状況の中で、ひょうたんから駒のように、NTTのテレビ電話会議システムを利用することで、久留米と東京を電話回線で結んだ同時開催のどうしよんな会ができました。10年前には、開催直後に「阪神大震災」があり、関西方面の仲間の安否が気になりました。15年前、20年前と振り返れば、様々な出来事を思い出します。日本経済の高度成長期に明善高等学校へ入学し卒業し、その後オイル・ショックを経て、円高不況から平成バブル。その崩壊と共に未曾有の不況。やや立ち直りの気配も感じられますが、2004年は台風が過去最高の上陸回数を数え、(久留米近郊在住の人は平成3年の17号、19号は忘れられない)新潟中越地震、年末にはインド洋での津波による被害と信じがたい出来事が続きます。
30数年前、卒業時に考えられなかったくらい生活環境が変化しています。携帯電話はその最たるものではないでしょうか?さらにまさかのように仲間の一人一人が「教える立場として」、「保護者として」、「同窓会のお世話役として」明善高等学校へ帰ってきています。当時、それらを想像出来ていた人がいるでしょうか?齢(よわい)50歳を越え、振り返るには早すぎるけど、記憶を呼び戻すことを始めるには遅すぎることはないと思います。今回は、明善で過ごした青春時代を振り返ってみようと思います。偶然にも当時の運動会を8mmフィルムで撮影された方から、5分程度ですが、当時のカラー映像を提供していただきました。運動会の応援団の歴史や先生方の若かりし頃の姿などご覧いただきたいと思います。そしてもう一つ、明善同窓会関東支部幹事として活動してくれている豊島栄三郎君がみんなの声援・応援で生還してきました。「三途の川のこっち側」(生体肝移植の記録)=HPに掲載。みんなへお礼の気持ちを込めて話をしてくれます。
『克己』『尽力』『楽天』の校訓とその誇りは、僕らの人生訓の一つになっているのではないでしょうか?さぁ!「冬のソナタ」のように高校時代の初恋を思い出して、声をかけて見てください。「どうしょんな?」と旧交を暖めてください。
最後に、5年毎の約束をはたすことができた喜びと、準備のために忙しい中を集ってくれた幹事の皆さん、本当にお疲れさまでした。
みなさんのご健康を祈念いたします。
2005年1月3日
明善同志47(どうしよんな?)会
会長 田中(諸藤)四十三
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