「余命半年」の告知


おいおい!!


 「移植しなければあと半年、それ以前にということもありえます。」
1月13日、慈恵の担当医、阿部先生にすすめられて行った東大病院で、金子先生に引導を渡されました。
先生いわく、「なんでこんなにずばずば言うかというと、ドナーも決まって待っている間に亡くなられる方もいるからなんです」。

「ホントにずばずばいうわ」

  と思いながら、さすがに心の中で「あらー」と言っていました。

そのあと、診察に立ち会ってくれていた移植コーディネーターの野尻さんが、いろいろと説明をしてくれました。
 もちろん「お決めになるのは患者さんですが…」といいながら
移植ありき」という雰囲気です。

 僕としては、結構長かった(と思える)医者の話すら十分受け止めきれていないし、ましてや消化できてもいないのに、事務的なことをいわれても、という感じで少し疲れたのを思い出します。
一方で、自信にみちた金子先生の雰囲気や野尻さんと話して、信頼感はめばえていました。
 これまで診てもらってきた慈恵の先生から(厄年にC型肝炎と診断され、インターフェロンの投与を行いましたがうまくいかず、その後は月に一度の通院と注射を続けていました)、そろそろ癌が出てくる時期だということは確かに聞いていましたし、付随して起きる食道静脈瘤や脾臓の肥大化などのことも聞いており、なんとなく覚悟はしていましたが、自分の病気についてのここまでの理解はありませんでした。

こんなに早く?」というのが実感でした。

 東大病院で引導を渡された直後は、さすがに、「ちょっと待ってくれよ!(慈恵の主治医は)もう少し丁寧に説明してくれて、対処法の指導なんかをもう少し具体的にしてくれてよかったんじゃないの?食事制限とか活動量とか…」、という気持ちも生まれました。
 節制しているつもりでしたが、「もう少しきちんとしてればよかったなあ」と後悔したりもしました。
    もちろんこんな未練がましいことは人に言えません。
 丹治へのメールに少し書きましたが口にしていません。この時の「ホンネ」はいつの間にかどこかに消えてしまいました。
  「終わったことは仕方がない」
   二、三日もすると気持ちも落ち着いてきました。
 これから人に連絡して驚かすことになるのに、自分が動揺していてはどうしようもないという気持ちになれました。
 妻は、それ以前に「いつでも私(妻)が来れるように、病院を移ろうか」と自分が勤めている病院への転院を勧めていたのですが、それは、その前の週に慈恵の医者に「死の通告」されていたからでした。
僕自身は、「先生に任せておけばいい、信頼している。」と言って取り合いませんでしたが、妻は、のうてんきに構えている(ように見えたようです)僕をみながら、慈恵の医者に対して、早く本人に(あと半年の命だと)言って欲しいと、一人で気をもんでいたようです。

人間50年、いろんなことをやらせてもらったなあ。

 あとで、「そういう時には何がしたいと思うものですか?」
と聞かれましたが、考えてみれば何も浮かびませんでした。
一年有半とでもいわれればまた違ったかもしれませんが、半年じゃあね。

 散る桜、残る桜も散る桜(良寛辞世)


医者もいろいろ?
 先生も世代によって考え方が違うんだろうと感じました。
C型のウィルスが発見されてもいなかった時代に医者になった先生、
移殖がまだ行われていない特別なことだった時代からやってる先生、
最近10年間、移植が「当たり前のこと」になった時期の最近の医者、
それぞれ「刷り込み」のようなものがあって、日進月歩の医療の進歩にすべての医者が対応して、感覚までバージョンアップできているとは思えないような気がしました。
それ以前に内科と外科、移植外科との発想の違いはあるでしょう。
 10年間つきあった慈恵の主治医は、少し前から
「あなたは若いからなぁ・・・」
「移植を考えた方がいいかなぁ・・・」と独り言のように言ってくれてはいましたが、病棟の担当の先生にすすめられて東大に行き、移植の準備を始めている間も、回診の度に
 「仕方ないねぇ」
 「じゃあ、よく考えて・・・」と繰り返しおっしゃっていました。

煮え切らないなぁ、という感想もありましたが、先生としても残念に思ってくれていたのでしょう。

世代の違いではなく、性格や考え方の違いもあるのかもしれません。
主治医としてのぎりぎりの判断があの時期だったのだと思っています。


お見舞い解禁
 1月17日には久留米の実家の兄に上京してもらい、医者から病状〜移植以外に助かる道がないということ〜を説明してもらいました。
 週をまたいで1月19日には、退職金の前借のお願いも含めて勤務先の政労連、渡辺委員長に報告しました。
一ヶ月程度の検査入院と思っていたので、病院の名前は内緒にしてもらっていましたが、委員長もさすがに驚いて、
 「じゃあもう病院の名前を公表するからいいね」とのことでした。


 早速、翌日、政労連の加盟組合の仲間が見舞いに来てくれました。

初日にきてくれた方たちなどは、お通夜に来たような感じでした。
                  (こんな言い方、申し訳ありません)

しかし、だんだん僕が「元気」なのが伝わってか、来てくれる方も、それなりに深刻な感じではありましたが、お通夜のような感じはなくなりました。
 単組の現役役員のみなさん、単組のOB、政労連OB、他の産別の役員・友人、連合の役・職員、明善高校時代からの友達、大学時代の先輩や友人…、本当にたくさんの方が見舞いに来てくれました。メールもたくさんいただきました。

 手術の当日携帯に残されていた激励メールや、「今日ですね。がんばって」という数通の留守電を手術後に聞いたときは(知らずに終わった可能性も考えると)また一段とうれしいものがありました

勘弁してよ
 あまりに深刻に受け止めて心配してくれるのもなんとなく申し訳ないのですが、約一名、高校時代からの友達が、普段と変わらないノリで見舞いのメールをくれたり、電話したときいつもの高いテンションで話されたときは、「まったく盲腸じゃないんだから、もうちょっと深刻に受け止めてくれないのかなぁ」という気持ちになったりしました。
 もう一人、身内を難病で亡くした経験を持つ友達が、その病気の話や副作用の経験談などをたくさん話してくれたのですが(亡くなったケースを語られても)と少し閉口しました。その友達は「最近、はまってるのよ」といって、分厚い「死後体験」の本を二冊見舞いにくれました。
(おいおい、ほんとに「いっちゃう」かもしれないんだよ。別に予習したくないよ。)
この友人は、「友達に回状を回して、ドナー登録してもらおう」と言ってくれましたが、縁起でもない。死ぬのを待つみたいじゃないか、という訳で、それだけは勘弁してもらいました。両方とも何故か女性です。
やっぱり女は強い。無神経と思ってはいけません。深い愛です。

 せっかく心配してくれているのに俺も「わがままだなぁ」と思ったり、「この期におよんで鍛えてくれるなぁ」と思ったり。もちろん、この二人にも心から感謝しています
 それに、こんなことになると、普段は逆なのに男の友達の方に無性に会いたくなるということにも気づきました。実際、福岡にいる高校時代の友人が何人か会いに来てくれました。
告知をされた直後には「信じない」という言葉がなぜかうれしく、手術が決まったあとは、「(成功を)信じる」という言葉がこころに響きました。

政労連ではさっそくカンパの呼びかけをしていただき、明善の仲間や東京の友人までカンパを募ってくれました。
                                            つづく
                   ―次号は、長男のドナー立候補から―