楽苦美(ラグビー)と出逢いvol.4(もうちょっと明善時代)
もうちょっと明善時代を語らせて(^_^;)
 1年生の大きなイベントに運動会があった。8組の中で赤組の応援団に選ばれた?(どうやってその事が決まったのか、記憶に無い)私がそこで出逢ったのは、この先、同じクラスにもなったことがない、柔道剣道の選択も違う、理系文系のコースも違う・・・大坪純一だ。そして丹治君。空手の型を先輩から伝授される中でやはり丹治君が一番決まっていた。この運動会で応援団に入っていなかったら、純ちゃんとは親しくなっていないし、現在、同志47会の幹事もやっていない。そして私の家の設計も依頼していないだろうなぁーと思う。
 この運動会で印象的なことが、最後の応援合戦で白組の時間オーバーによる採点で揉めたことだ。白組がボイコットして閉会式が無かった混乱した状況だったような気がする。そこで先頭に立っていたのが片目のジャック、ラグビー部井上先輩だったと思う。

 2年9組は1年8組のメンバーが半分を占めていた。6組?に行ったタローは寂しくて休み時間の度に9組に遊びに来ていた。教室は地下食堂の上にあり、カレーの香りが午前中の授業には刺激的だったが、あのカレーにはソースをかけずにはいられなかった。

 今、思い返して見ると、青春真っ只中。恋に悩み、一番楽しかった時!のような気がするな。(でもあの時は真剣でマジに悩んでいたよ)
 一番話していたのが宮川(星先)さんかなぁ?夜は電話で長話。このころ1通話10円だったのが3分毎10円に変わったものだから、電話の横にタイマーが設置された。宮川さんとはお互いに思いが通じない相手の事を相談しあっていた。

 成井さんの剣道防具、小手の匂いを嗅がされた時には参ったよー「クサクサ攻撃―!」って追いかけてくるんだもんな!ラグビーのジャージどころじゃないよ、あれは!柔道選択でよかったー。
 ユミとチーコの「カロリーコンビ」。会話はいつも「あれは何カロリー!これは何カロリー!」といつも言ってた。
 白石恵美さんと野田由美子さん「ブタブタえみちゃん、ブタブタゆみちゃん」と僕達が言っていたかな?今思うとすっごく失礼な事ですね。スンマセン
 四十三ちゃんは柔道部であの風貌、強面でありながら頭のてっぺんに抜ける高音で「お前達はなんばしょっとかー!!!」ガクっと来た。(その彼が現在、明善の教頭先生とは(驚))
 水泳部の佐々木君クラスの声援を受けてパチンコに行った。
かく言う私はこそっと授業をサボり、広又の映画館に行ったこともある(「ブーベの恋人」だったかな?)
 修学旅行・自由時間で絶好調なのが早田増臣とヒラメ平山恵美子さん、パーマン(正式にはパーマン2号、サルみたいだから。)森誠のミスター・クラスマッチに対してミス・クラスマッチと称された】
 反戦的なフォークソングが流行り、ギターを弾きたくなった私は我流で覚え始めたが父の「基本が大切」という勧めで木下楽器店日吉町教室?(一番街入口)のクラシックギター教室に通った。
 ラグビー秋の大会前の練習、タックルで右肩を強打して痛んだ。大会に入り右肩を気にしながらもタックルにいった・・・激痛が走り、リタイヤ。脱臼だった。この事が現役を遠ざかることになる・・・。(今でも脱臼癖が抜けずにキャッチボールも全力でできない、はずれても自分で治せるけど)
 あー、ラグビー部の写真の説明で誤りがあります。千代田先生の隣は向井治次さんで明善OB、久留米大学医学部卒の産婦人科の先生です。午後は「スポーツ医学研修の為」という休診の看板を揚げて、ラグビーの指導に来て下さいました。黒のサングラスをかけて、えーらいエスかったです。そして昭和49年のりんどうヤングラガーズ誕生に関わる創設者の一人となります。ここでも予期せぬ出逢いがありました。
注:クラス替当初は確かになじみが少ないから元のクラスへ遊びに行ったのも判りますね。
  地下食堂は現在もうありません。焼きそば、親子丼など懐かしいメニューですよね。
  この頃通話料が3分10円になったんですか。知らなかった。
  娘をもって判ったことですが、17〜8才の頃って、ピチピチして、はち切れそうで
  色気よりも生のままの若さがいっぱいの頃ですね。
  四十三ちゃんの名前は、親父さんが43才の時に生まれたからだそうです。(本人談)
  木下楽器店のギター教室に通ってたんだ。(木下君も知らなかったでしょう?)
  因みに坂ちゃん家には当時のFG15(ヤマハ・フォーク・ギター)があります。