まだまだ明善時代を語らせて(^_^;(なかなかりんどうへ話が進まないな)
ラグビー部の練習は北グランド中央を使い、ゴールポストは丸太を組んだような作りだった。キックから始まり、ランパス、スクラム、バックスライン攻撃、タックルなどなどキツクて痛いことばっかり・・・。雨の日のセービング(ころがっているボールに飛びついてズルーっとすべってボールを確保すること)は面白かった。
周りを見ると陸上部が華麗に走っていた。野村君、後藤君、小川さん・・・。(この頃、桑野裕文君とは話したこと無かったような気がする。14年ぐらい前にウチへ転勤転居の挨拶状の印刷を依頼に来たのが最初ではなかろうか?それからりんどうで同じコーチとなり、彼は監督!私は事務局長となってりんどうを動かしてきた。)桑野君から聞いた話では「陸上部のやり投げの標的にラグビー部の連中を!」なんて言ってたそうだ。なんと失礼な(怒)
南側では軟式テニス部が青春していた。女子部員が多く、羨ましかったなー
(クラブ選択を誤ったか!)
私は明善時代、久原病院に3回入院した。
一回目、体育の授業中。バスケットを練習中に古賀敏彦とぶつかり、膝を強打して立てなくなり、そのまま病院へ。これは大した事なく一泊で退院したと思う。その後、バスケットのクラスマッチがあり、私は補欠だったのかな?途中から出場しゾーンディフェンスから相手ボールをインターセプトしてゴール下までドリブルした。横で森君が声をかけたので森君へパスをして、シュート!入らなかった。(パスをせず、私がシュートしていれば・・・?)
二回目は自転車でタローと森君と3人で帰宅中。市役所正門からキムラヤ(パン屋さん)へ横断するときに事故は起こった。車が来ているのが分かっていながら何故か私一人スーッと渡りはじめた。後もう少し!という所で車と接触して、左足をはさまれた。当時、消防署が市役所の隣だったので(たぶん)通報もしていないのに救急車が来て、久原病院へ。生まれて初めて救急車に乗った。タローによると、なんで渡り始めたか?「理解に苦しむ」そうだ。
退院後、文化祭があり、私は松葉杖で9組の展示している教室にいた。展示品は高松重仁君考案の数学的幾何学な螺旋状のものだった。
三回目は3年生運動会直前の盲腸手術。胃が痛くなったので内科に行ったら
「盲腸ですね」またもや久原病院へ。
手術前、思春期の私にとって下腹部を剃られるという事は非常に恥ずかしかった。
しかも「看護婦さんに、だよ!」
下半身麻酔なので目隠しの下から覗いたり、声を聞くことが出来た。切り取った小指大の盲腸を高くかざして「うーん、丁度切りごろだったね」と満足そうに先生が言っていた。
手術して3日後、運動会があっていた。居ても立ってもいられず、病院を抜け出した。
「あー!皆んな 楽しそうやねぇー」 悔しかったなぁー!
野村由美子さんと野口真智子さんが場外で男子応援団のマネをしていた。
病院に帰ってきたら脱走がバレて看護婦さんから叱られた
「まだ抜糸もしとらんとにー!」
(実は糸で縫ってはいなかった、クリップみたいなもので傷口を挟んであった)
3年5組では女子は5人!皆、選りすぐり。英語、数学それぞれ得意な子に私は教えてもらった。
英語の小テストで70点取って「えーらい良かった」と喜んでいたら、
75点とっていた高橋さんは「悪かったぁー」と落ち込んでいた。
この差はいったい何なのだぁー!
現在、由美子先生は私達一家と嫁さん父母の主治医です。お世話になっています。私は久留米市の検診があって由美子先生のご主人に診てもらうつもりが、留守で由美子先生の診察になって、またもやチョー恥ずかしく緊張しましたよ(^.^)
そんな3年間を過ごして受験。見事に失敗して水城学園に行くことになった。
ここでも、また新たな出逢いが始まった・・・・・
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