楽苦美(ラグビー)と出逢いvol.6(晴れて・・・)

 晴れて?水城学園に入学した私は明善の仲間・・・森誠、寺町君、大坪君などと再会を果した。しかし、そこで初めて出逢ったのは池田真知子。そう!嫁さん
彼女が明善出身である事を全く知らなかった。廊下ですれ違ったことぐらいはあるかもしれない。休み時間に森君達が話していたのを見て「彼女も明善だったのかぁ?」と思っていた。彼女は僕の存在を知っていたらしい。

 ある日、森君がオカリナを持って来た。それを彼女に見せたり渡したりしているうちに落っことして壊してしまった。どちらに非が在るのか分からない・・・。久留米の楽器店に行って、また買ったのかな?弁償したのかな?よく覚えていない。けど、その買い物に私は付き合っていた。それからだ!彼女と話すようになったのは!!

あの時、森君がオカリナを持って来なければ、オカリナが壊れなければ・・・

今の私はない!と書いておこう、そうしないと後が恐い。

 それから受験、大学進学、東京生活、卒業、就職・・・結婚、出産(私ではない)
ターン就職、そして現在に至るというのが簡単な流れだ(簡単すぎたかな?)


 たった2行の7年間、本当はいろんな事があった。いろんな人と出逢った・・・
特に初めて就職した会社の先輩達にはお世話になったし、影響も受けた。
角打ち(酒屋での立ち飲み)を覚え(それから晩酌の習慣がついたのかもしれない)酔って北千住駅のホームから落とされたこともある、結構ホームは高い所にあるものだと分った。数日後、松戸駅でのホーム落下事故ニュースを見て、ゾッとした。


新婚旅行は奮発してヨーロッパを2週間回ってきた。

ルンルン気分で羽田空港に帰って来た時の事。嫁さんが電車の切符を買いに行っている間、荷物の横に座っていた。すると警察官2人が近づいてきて

 ボク!、お母さんは何処? 住所は?」と訊かれた。

 これって、職務尋問? 補導されるの?と即座に思った。

「今、が切符を買いに行ってます!!!」きっぱり言ってやった。

不思議そうな顔をして、きまり悪そうに警察官は立ち去った。
新婚旅行で補導されそうになるなんて(泣)僕ぐらいかな?

 ラグビーといえば大学入学時に勧誘されたが、肩の故障と視力の低下を理由に断った。誘いの言葉は「タックルしなくていいから入ってくれ!」だった。
そんな馬鹿な!

 伝統の早明戦観戦のため国立競技場へ足を運んだ。私が観た時は早稲田の宿沢(後の全日本監督)がスクラムハーフで頑張っていた。その試合は10対10の引き分け、壮絶な試合のノーサイドの瞬間、両フィフティーンは膝まづき、起てなかった・・・。
私は鳥肌が立った。

「あー、やっぱ、ラグビーちゃーよかねー」心から思った。

 東京に別れを告げ、久留米に帰って来た。28才の時だったかな?嫁さんの実家
尚文堂印刷をやっていこう」と。
実は前の会社が福島県白河に工場を建設して、そこの生産管理に行かされそうになった。「フクスィマ(福島弁のつもり)はいやだー!」って帰って来た。
(福島の方、ごめんなさい)


仕事をしながら謡曲の世界に出逢った。
 父が九州電力に勤務しながら観世流謡曲の先生をしていた。定年後は素謡(すうたい)だけでなく、お仕舞、大鼓(おおつづみ)を習い始めた。
そして父の楽しみを「下咽喉ガン」が奪った。声帯摘出で商売道具の声を失った。そんな父も母の手厚い看護で声の無い生活を18年間続け、3年前83才で逝った。


 皮肉にも声を失った後、父の友人である謡の先生から「親父の後を継げ!」と強引に弟子入りさせられた。小学生の時から父の謡を耳にしていたので、謡を習う事に何の抵抗も無かった。(鶴亀など丸暗記していて、5年生の誕生会か、何かで謡ったことがある。皆「お経ね?」って大爆笑だった)

素謡、お仕舞、舞囃子(まいばやし、お仕舞に笛や鼓の囃子方がつくこと)の世界にのめり込み、紋付、袴、足袋、扇子といった格好も気に入っていた。大濠能楽堂にも度々足を運び、能の凛とした空間にも引かれていった。

舞囃子の写真
1990年頃、会場は料亭「初寅」
演 目「邯 鄲」(かんたん)
簡単ではない!
大鼓は重要無形文化財 故 柿原重蔵 氏

1989年(平成2年)11月、第2回同志47会の名簿作成準備をしていた時だった。明善入学時からずっと遊んでいた早田増臣君がこの世を去った。今まで私が生きてきた中で一番悲しく、辛い衝撃的な出来事だった。第2回同志47会の名簿から彼の名を物故者に移す作業は出来なかった。
(この事についてはこれ以上書けない、ごめんなさい)

 お参りに行ったりするうちに南田大介さん(増臣の義兄、明善の先輩でもある)と出逢った。何を隠そう!この人こそが私をりんどうヤングラガーズに引っぱり込んだ張本人なのだ!早田家の周りはサッカー好きばっかりで、りんどうのコーチをしていた南田さんは何とかラグビーを広めたいと思っていたようだ。そこへ私がやってきたものだから

りんどうに入ってくれんね!


 その時はまだ、謡いにのめり込んでいたのでコーチは無理だろうと思い、まずは小1の長男を入部させた。私は木陰で練習を見ながらお仕舞の稽古をして謡を暗記していた。りんどうのコーチは明善出身が多かった。半年過ぎて、あるコーチから

お前はいつまでそこにおるとか!早よ着替えて来んか!」と云われた。

その人は私が高校1年の時、可愛がってくれたOB。
初トライをしても誉めてくれなかったOB だった。


嫁さんからは「お謡とコーチと一緒に出来るとね?」諭された。

 「まー、やってみるたい、出来なかったら辞めるたい

 りんどうヤングラガーズのコーチになった。1990年9月の事だった。

注:水城学園でのオカリナは、なんとなく覚えているような・・・・・
  確かクリスマス会?(予備校でクリスマス会があるわけないか)で
  森君は歌とオカリナ、坂ちゃんがギター(FG15)で「僕の好きな先生」
  RCサクセションの歌を歌いましたね。
  森君が慶応大学の三浦先生のモノマネなんかしてね。

  新婚旅行は笑っちゃった。可笑しい。その光景が目に浮かぶ。容易に想像できる。
  坂ちゃんは今でも50には絶対見えないモン。

  酔っぱらって駅のホームに落ちた。これも危ないねぇ。みなさんも気を付けましょうね。
  謡曲の件は、門前の小僧なんとやら・・・・・小学生に聞かせりゃ、確かにお経だ。

  りんどうヤングラガーズとは、早田君が縁なんだ。南田さんは覚えています。
  しかし見学の保護者によくいいますねぇ。確かに昔から知っていたでしょうけど。
  親と子が縁を切れないように、体育会系の先輩後輩も永遠に続くのかな・・・・・?