楽苦美(ラグビー)と出逢いvol.7(りんどう その1)

 りんどうヤングラガーズは1974(昭和49)年7月19日、9人の子供達からスタートした。創設には向井治次氏、片倉 胖(ゆたか)氏、池松照夫氏(本陣の大将)が関わり、福岡県内では4番目(現存するチームでは2番目)に産声を上げた。現在、幼稚園生から中学3年生まで合わせて160名(1992年には230名いた)、指導者60名が在籍している。久留米市内を中心に小郡、鳥栖、田主丸、大川、大牟田、北茂安から子供達は集まってくる。
 入部当時を振り返るとしよう。長男は小1だったので私は小2のコーチとなった。(各学年にコーチは4〜6名いて、学年毎に練習をしている)そこで出逢った子ども達の元気のいい事!に、まず驚いた。走ってきつくても直ぐに回復するし、休み時間はもっと走っていた。
 それから久しぶりの楕円球の感触いいなぁ。高校時代は皮のボールで水を含むと重たくなったが、今は合成ゴムで唾で磨き上げる必要も無い。楕円球にこだわりがあるのでボールに座っている子を見つけたら「ボールに座るなー!」と直ぐに蹴飛ばした。

 この学年で中心となっていたコーチは金八先生みたいな荒木康博氏で、話している内に荒木(室井)真理子さんのお兄さんと判明した。
 「えっー、真理子さんとは久留米第二幼稚園、荘島小、明善が一緒で、荘島では6年間同じクラス、学級委員も一緒にやってましたよー。真理子さんは久留米市の健康優良児で僕と並ぶと親子みたいねって云われてましたよ。」
 荒木コーチはJAS勤務で東京転勤となり単身赴任したが、毎週土曜日に帰って来て日曜日練習、月曜日、朝一番で東京へ!なんて生活を数年していた。何と熱心な!

 チビっ子にラグビーを教えるなんて初体験で、何を教えようか?どう教えようか?試行錯誤の連続だった。
 まずは友達みたいなコーチになろう!
 偉そうに怒って怒鳴り声ばかり上げずに子どもと同じ目の高さで一緒にラグビーをやろう!と思った。(この子供達が中学生となって卒業する頃には、そのほとんどが私の目より高い所にいた。)

りんどう・長崎ラグビースクール交歓会
場所 陸上自衛隊幹部候補生学校
4年生の試合でレフリーをしてスクラムを組ませようとしている。(水色のジャージがりんどう)
このグランドの予約や使用が非常に難しい。それらの手配や役割分担の整理などが事務局長の仕事のひとつです。

 どの子もラグビーというスポーツを知らずに、親が好きだから、させたいからというのがりんどうに入るキッカケだろう。最初は嫌がる子をなだめ、飴玉をつるし、騙しながら毎週日曜日の朝に連れて来るのは親の相当の努力が要る

 運動神経が良くてラグビーが上手い子には手がかからないが、そんな子は少なく、ほとんどが練習嫌いで虫を追いかけ、草むしりをして泥饅頭を作っている子もいた。でも試合になると頑張るんだなぁ、これが!

 高学年になると自分からすすんで練習に行くようになるし、草むしりもしなくなり、ラグビーの魔力に執り付かれ、ラガーマンとして歩んでいく。

 コーチの役割も分担され、主に実践的実技指導する人や、そのフォローに回る人など、私は草むしりをしている子を練習の方にどうやって向けるか、力を注いだ。咲いている花を見つけ育てるのは簡単だけど、これから咲こうとするつぼみに水をやったり、いくら水をやっても咲かないつぼみもあったけど。それは一人でも多くの子にラグビーを好きになってもらいたかったからだ。

 高校生以上は15人制のフルラグビー、しかし小学生はグランドを半分にして9人制ミニ・ラグビー。9人制というのも初めてで戸惑った。中学は15人制から12人制に変わった。
 私が最も影響を受け、カルチャーショックを受けた人物!それは松隈光矩氏だ。当時、監督としてりんどうをまとめていて、明善ラグビー部の先輩で久留米薬剤師会の副会長だった。
 【早田氏が「星子光記さんが薬局をしている」と教えてくれて薬剤師会の理事をしていた星子さんを通じて薬剤師会の仕事が来るようになっていた。この繋がりを作ってくれた早田氏に感謝している。】
 その人柄は寛容、包容力があり、懐が深く、自由奔放で豪快、発想が奇抜でユーモアがあり、人望厚く誰からも好かれていた。
 松隈監督から久留米市スポーツ少年団のハガキを渡され「ポストに入れるより坂田君が持っていってくれた方が早いやろ」スポーツ少年団事務所は元の江南中の体育館にあり、私の職場の目と鼻の先にあった。「近かけん、スポーツ少年団担当をしてくれんね。

 この事からだ!何かにつけ、頼まれた、そして引き受けていた。

 2〜3ヶ月毎に他クラブチームと交歓会があり、久留米で開催する時はりんどうがグランドの手配やタイムスケジュールを決めている。松隈監督はタイムスケジュールの手書きをコピーして配っていた。
 坂田君!ちょちょいと打ってくれんね」ワープロやNEC9800、印刷用DTPが出始めの頃で、印刷用DTPでちょちょいと打った。
 「タイムスケジュールを考えて作ってくれんね。ついでにレフリーも決めてくれんね」徐々に仕事の依頼がエスカレートしていった。(事務局の下地がじわじわと・・・、気が付かなかった)
 交歓会当日、コーチを回ってレフリーを依頼した。
 交歓会が終ると反省会と称して飲み会があった。
 坂田く〜ん!今日は何処へ行くね?」監督の目が言っていた。
 その日のゲームや子ども達を酒の肴にして大いに盛り上がり、酒豪の松隈さんに最後まで付き合うのは私だった。

 入部して間もない翌年2月に
 坂田君!天理に行ってくれんね
 「はぁー??(何故、私が??)


 全国ミニ・ラグビー指導者連絡協議会?だったかな、朝早くから新幹線に乗り天理に着いた。町中、天理教の施設でその一つが宿泊所だった。午後からミニ・ラグビーの指導方法についてずーっと実技、走らされた。夜は全体講習会、そこで出逢ったのが片倉 胖氏。その時はりんどうの創設者であることも元早稲田大主将、元全日本主将、元全九州監督だったこともまるで知らなかった。ただ熱く熱く指導方法に関して語っていた。部屋に戻って高知や函館のコーチと飲んだ。翌日の最終メニューは三地区(関東、関西、九州)対抗ミニ・ラグビー大会?で私は九州代表でウイングとなり、関西と試合をした。小雪の舞う中、きつかったなぁ。これもキャップ1って言えるかな?(言えるもんか!)
 後日、コーチ会で天理の報告をして、その席には片倉氏もいた。私なりに一生懸命報告したら、その日の反省会で「りんどうは何かひ弱な知らないコーチを天理に送り出して大丈夫かな?と思っていたら、しっかり報告してくれて安心した。よかった。」とお誉めの言葉を片倉氏より戴いた。ひ弱は余計だけど嬉しかった

 1991(平成4)年、早田増臣君の長男、小4の智一をりんどうに入れた。引っ込み思案の彼は小3のコーチとなった私に「おじちゃんと同じ学年なら、する。」と弱気だった。仕方が無いので数回、3年生と練習していたがすぐに小4の練習に入った。4年のコーチには鹿児島(堤)香代子さんの兄さんもいた。翌年、二男の健二(幼稚園年中)も入部した。
 毎週日曜日、わが子を乗せて早田家経由、グランド行きを健二が小学校卒業するまで9年間続いた。りんどうのなかで私が唯一自慢できる事だ。
 健二から電話があった。
おじちゃん、中学生になったら自転車で行くけん、もう迎えにこんでよかよ」
 一抹の寂しさが残った・・・しかし
 智一は怪我しながらも高校までラグビーを続けた。健二は現在、大分舞鶴高2年で、
U17(17才以下)代表に選ばれた。高校ジャパンも夢ではない・・・。
ヒラメは健二の追っかけに夢中であまり久留米にいない。

 まだ続く・・・あと1回で終りにしようかな?

注:荒木(室井)真理子さんのお兄さん、鹿児島(堤)加代子さんのお兄さん、星子さんと意外なとこ
  ろで出逢いがあったのですね。
  NEC9800なんて、懐かしいなぁ。まだ動かしていますよ。僕は。CAD専用機として。
  早田君との縁は一生切れませんね。9年間か。坂ちゃんだからこそ出来たことかな。
  早田健二君の将来が楽しみですね。片倉さんみたいに帰ってくるのかな?
  ラグビーがオリンピックの種目になったら、北京オリンピックに行くのかな?
  U17(アンダー・セブンティーン)カッコイーなぁ。一杯サインや写真、貰っておいてね。
  ラグビーと言えば、僕の母校「明治」は当時全盛期?森、松尾兄弟がいて、その後の新日鐵釜石の
  主力メンバーがいましたからね。森さんの妹が水城学園で一緒だったんですよ。(知っていた?)
  森さんは現役を引退してから、家業の森硝子店の後継者となりましたね。久留米で講演があった時
  聞きに行きました。中央公園陸上競技場で明大と早大のOB戦をやったりするとラグビー人気も増
  えるかもしれない。もっと草の根の活動をして、子供達からスポーツとしてやれるように活動して
  いきたいと話されていました。20年近く前の話です。