楽苦美(ラグビー)と出逢いvol.8(りんどう その2)
「りんどうヤングラガーズ」創設の経緯20周年記念誌より抜粋)
【昭和45年8月、ニュージーランドに遠征した向井氏と片倉氏は本場ラグビーの強さ、奥の深さを肌で感じ、帰国して会う度に「チビッ子ラグビーばせにゃいかんばい」と言った。片倉氏も「チビッ子ラグビー」に対する熱い想いを語った。その想いを温める事、4年、昭和49年春先、先輩の「熊本ラグビースクール」と福岡市「草ヶ江ヤングラガーズ」の練習見学に行った。
 そして昭和49年7月19日、久留米でB級レフリー認定講習会が行われた時、新島 清氏(九州協会書記長)による始球式で9人の子供達と7人余りのコーチで「チビッ子ラグビーチーム」が誕生した。コーチ達が当時「りんどうクラブ」(社会人クラブ)だったことから「りんどうヤングラガーズ」というチーム名称が決まった。父母の会は喜多村辰男氏が中心となって活動開始した。
 向井氏は「我々はラグビーの強かチームば作るとじゃなか!ラグビーを通じて強か体と強か心ば育てるとぞ!」と。それは人を思いやる心、困難に立ち向かう勇気、何事も決して諦めない粘り、そして体力である。先輩諸氏が最も望んでおられた事は「一人でも多くの人にラグビーを好きになって欲しい。ラグビーは誰にでもできるスポーツだという事を知って欲しい」ということだった。

 喜多村辰男氏語録
指導方針に関してコーチ同士の議論が深夜に及ぶ事もあった。こんな時、
「あんたも正しい、あんたも正しい。世の中には二つ正しい事がある事もある。」
「ラグビーに関する喧嘩はどんどんやりなさい。ただ、つまらん喧嘩はやめときなさい。」】

 私が入部して翌年1991年、宮本充範君をりんどうに引っぱり込んだ。彼には男の子はいなかったが快く引受けてくれた。自衛隊仕込みの整列やかけ声は定評があり、「りんどうの森田健作」と私は呼んだ。彼のキチッとした性格からコーチ会の会計をやってもらい、私は「コーチを辞めても会計は辞めるな!」と言っていた。奥様にも賞状の名前書きで協力してもらった。
 1992年、桑野裕文君は息子3人(裕行、壮裕、友裕)を入部させ、成り行き上、彼もコーチとなり2人とも私と同じ4年生コーチとなった。体育の先生らしくキリッと子ども達に接し、また自らを「よろずや桑野」と称した。彼に言えば殆どの用具は揃い、私は大変重宝した。しかしこの先、監督になるとは・・・全く予想できなかった。
 同じ年、稲葉順君も息子(雄大)を入れ、コーチとなった。翌年、早田智一の担当学年コーチになった。中学生春合宿の朝、私は「タックルの練習に軍手が要るけど・・・」電話したら、直ぐにハーレーダビットソンに乗って使い切れないぐらいドカッと持って来てくれた。嬉しかった

 何故、早田増臣氏の長男、智一をりんどうに誘ったか?って。それは
小2の11月、父親を亡くしてから元気のない彼に周囲からはサッカーの誘いが頻繁にあっていた。しかし、イマイチ乗れずにいた。南田さんの長男剛(ごう)君もりんどうで頑張っていたし、早田の両親とヒラメに「毎週日曜の朝、迎えにくるけん、ラグビーさせて!」とお願いした。運動能力はあの2人の子だから折り紙付き!ちょっと消極的な性格が少しでも積極的にならんかな?体力を持て余しているようだ!りんどうにはお父さんみたいなコーチがいっぱいいる!私が増臣の代わりになる訳ないし、りんどうに関わっていれば何とかなるくさ!と思った。
 卒業する時、ヒラメは
多くの大人の男の目で見守って育てられたような気がします。」と話した。
 現在、彼はあかつき幼稚園の先生である。顔もちょっと猫背の姿勢も、ちっちゃな子どもをあやすのが上手かった増臣とそっくりになった。(中学生の時かな?夜中、ヒラメは寝ている智一を増臣かと思ったほどである。)


 りんどうの組織は会長、監督を始め、委員会は総務、企画、広報、競技、用具、会計、安全対策があり、それぞれの委員長、副委員長が集まって運営部会を構成し、それがりんどうの最高決議機関となっている。事務局は当時無かった。
 私は職業柄、広報委員になった。そこの委員長は「こだわりの知将」豊田昌宏コーチ(明善35どうしょる会)と「松隈監督が一番頼りにしていた」副委員長の古賀京子さん(旧姓和田、明善46年卒)だった。広報委員会は不定期に「エリス」という広報誌を発行していて、手書きまたはワープロで打った物を張り込んでコピーしていた。私が入ってからはDTPで作って印刷した。しかも激安半値価格!

 1993年りんどうは創立20周年記念事業となり、広報委員会は20周年記念誌を製作する事になった。何度も編集会議があり、こだわりの豊田委員長は妥協を許さなかった。しかし会議の雰囲気は面白いというか、おかしいお母さんが多く和気藹々以上に騒がしく、あの年齢になると下ネタも恥ずかしくなく、むしろ明るい卑猥な話で盛り上がった。そして記念誌は大胆な表紙と充実した中身で完成し、各クラブにも発送して大好評を博した。いえいえ、決して下ネタは載せておりません、こだわりの真面目な記念誌でした。

 資料を見ている内にある事に気が付いた。
りんどうの誕生日は昭和49年7月19日、私は昭和28年7月19日、偶然だろうが運命的な物を感じた。更に、宮本コーチは7月20日生、桑野コーチは7月21日生、3人とも「かに座」で血液型B型なのである。こんなにも性格の違った3人が同じかに座B型というのだから、如何に何月生まれの運勢や血液型占い、星座占いが当てにならないか!疑問だ。
 
 この頃、私は長門石町に住んでいて、長門石小の運動会に行くと知った顔がチラホラ。原 淳二先生に實藤哲夫先生、岡田日出志君に荻(古川)和恵さん、他にもいたと思う。
 特に實藤先生にはお世話になり、次女の担任となって家庭訪問にも来ていただいた。
「よく出来た娘さんで何も言う事ありません。」だって。

  真面目に家庭訪問しろ!(笑)
長男と荻さんの息子は同じクラスになり、ときどき遊びに来ていた。
現在、原淳二先生は西国分小の校長先生、實藤哲夫先生は京町小の教頭先生である。

 次第にりんどうでの役目も増えたが、以前から謡いとの掛け持ちが負担になってきていた。交歓会や合宿と謡の発表会が重なり、謡は役が決まっているから抜ける訳にはいかない。すると舞台に上がっても謡に集中できない、心がそこに無いのだ。
「あー、今ごろ試合をしているなー」
「練習の成果は出せたかなー」、「結果はー?」なんて。


 能の世界から離れ始めた。
もう一つ現実的な問題、それは「お金」。準九番、九番、初伝、中伝、重習、名誉師範と段階的にお免状を貰って出世していくのがこの世界。家元制度では
先生から上の先生、そして職分家、家元とお免状を貰うのに「お金」が要る。
先生から再三の免状取得要請があったが
 「子どもの教育にお金がかかるけん、お父さんにはお金かけられん!」妻の一言、稼ぎの少ない私には反論できない(悲)
謡は老後の楽しみにしようっと!ラグビーに頑張るかー!
やはり二足の草鞋は履けなかった。
 紋付、袴、足袋、扇をしまい込み、ジャージ、短パン、スパイクだけになった。
謡の会ではお仕舞や舞囃子の出番直前、心臓バクバクで頭が真っ白になるくらいの緊張感!扇を翳すと手先が震えた。他では味わえない。今思うと楽しかったなぁ。
会が終っての懇親会、年配の方から
「坂田さぁーん、若くていいねぇ。独身でしょう?今度、娘を紹介するねぇー」
しかし、紹介された事は一度も無かった

(おまけ)

前述した「イマイチ乗れずにいた」の「乗る」という言葉は謡曲から来ていると思う。
多くの曲の最後にノリ地(ぢ)という8拍子のリズムに添って謡い上げる場面がある。
大(おお)ノリ、平(ひら)ノリ、中ノリなどテンポの違いがあるが、リズミカルに気分も乗って謡うのである。

数年前、ディスコなどで叫ばれていた「ヘーイ!ノッテルカ〜イ!?」も同じだと思う。
この説は独断に満ちている、信用しないように(笑)
注:47会のメンバーが結構関わってきたんですね。「りんどうヤングラガーズ」には
  知っている人は知っている。知らない人は全く知らない話ですね。

  20周年記念誌。良いですねぇ。このどうしよんな会も20周年になりますね。
  45年卒も広報誌を作ったんだってさ。

  「ノリノリ」が謡曲から来ていたとは新説です。(笑)
  ぼくの全国のビートルズ仲間5万人(ファンクラブ)に教えてやろう。
  日本の伝統文化が西洋の音楽と結びついた「Meet The East And West」なんちゃって。