原発と放射能を考えるページ   No.4

原子力と私 - A.K

2012/07/03 (Tue) 04:12:35

  少し、長くなりますが、自分の思いを乱脈に述べさせてください。

  何故、これだけ執拗に私と原子力との関わりが続くのか。逃げたい気持ちで一杯なのだが。私の人生に対して執拗に彼(原子力)の方から答えを私に求めてくる。原子力は私に問う「お前はどう対処したいんだこの私(原子力)を」と。

  現在、アメリカワシントンD.C.でエノラゲイの機体が展示されている博物館そばの事務所で働いている。テレビでエノラゲイの記録映画も当地で見た。原子爆弾は連合軍の日本上陸作戦で生じるであろう連合軍の犠牲者発生を未然に防止したのだと結論づけていた。原爆は救世主だそうだ。二発落として、二発目の長崎の投下が目的場所より少しずれたことを失敗の様にナレーションしていた。広島は太田川の橋が高々度爆撃の目標に有効であり、また広島は25%の住民が軍関係者なので原子爆弾を落とす必然性があったともテレビで述べていた(残りの75%は道連れ?)。

  私は佐賀県鳥栖市生まれである。原爆のことは直接見聞きしたことはない。しかし、近所に原爆でケロイドを負った少年が長崎から移ってきたこと、その内いなくなったことを母が話していたのを微かに記憶している。

  明善に入り進学時期を迎え、理科系志望となり北大農学部に進学してクラーク博士の「少年よ大志を抱け」みたいな事を父に言ったら「医学部に行け」の答えだった。理由は父の弟が旧長崎医科大の学生だった事。原爆投下の8月9日、彼は促成軍医となるべく自主参加の講義を受講中に被爆した事。彼は重傷を負いながらも這って下宿に戻った後、重傷患者の収容所に転送され行方不明になった事。残された遺品は下宿で脱がされた血染めのシャツのみであり、墓にはそのシャツのみが埋葬されたとのことであった。
 父の意に沿い、医学受験。失敗。浪人した。浪人中、「医学部は無理」と自分で早々に判断し、文転した。

 これで原爆とは縁が切れたと思っていた。会社も石油会社勤務。しかし、本社経理部勤務中、カナダのウラン鉱山開発プロジェクトに配属された。まず我社のウラン鉱山権益を福島や新潟の原発でウラン燃料を消費していたT電力に一年間の水面下の交渉を経て一部売却して開発資金を確保。そして権益譲渡契約締結及びそのプレスリリース1週間後、カナダに赴任。商業生産に向けてT電力と共に頑張ったが、ソ連崩壊後の世界はウラン燃料価格低迷のため、新規鉱山の開発気運は盛り上がらず、2年間の努力にも関わらず延期となり、私も日本に戻ることとなった。この2年間はつらかった。妻と子供もカナダに連れていったが、私は土日も会社に出ることが多く、私はうつ状態、家族は欲求不満状態だったと思う。当初この辞令を受けた時、「ウラン?」と聞き、たじろいだ記憶がある。カナダから降格人事で金沢支店総務課に転勤となった。しかし、金沢で皆様に助けられ家族も全員元気になった。

 尚、ウラン鉱山開発はイエローケーキを作るまでを言う。そこまでは自前で作り、転換&濃縮工場に出荷することになる。確か、ショートトンベースでイエローケーキの生産能力が鉱山の算出能力を表す指標だったと思う。

 尚、ウラン価格低迷の背景はソ連崩壊により核弾頭が残されたウクライナやベラルーシュを含むソ連の旧共和国の核がテロ活動家やイスラム過激応援国家及び北朝鮮に流れない様、米国がウランメジャー(当時はカナダ、フランス企業がメジャー)と組んで核弾頭の超濃縮ウランを薄めて原子力燃料としてウランメジャーが優遇価格で引き取るスキームが存在したことが価格低迷の背景にあったのを後で知った(日経新聞の私の履歴書でペリー元国防長官が述べている)。また、オーストラリアが労働党政権から保守政権に変わり、ウラン鉱山の新規開発にOKが出たのも価格低迷を加速させた。

 その後、私は転勤を繰り返した。広島にも1年間単身赴任勤務した。アパートは段原という地区にあった。比治山という100メートル未満の標高の小さな山が市内東部にあり、その背後に段原地区があったため、幸いにも原爆の爆風から逃れた場所だった。張本(旧巨人選手)も段原中出身で命を永らえている(お姉さんは勤労動員で被爆してその後看病の甲斐なく死亡)。私が勤務した年の原爆記念日は日曜日だったため、私も出席できた。暑かった。しかし、皆さんの熱気が凄かった。たったこれしきの暑さでという感じを受けた。

 又、広島勤務中、島根に出張する機会があり、高速バスに乗っていて窓を眺めていたら「永井隆先生、生誕の地」という看板が県境の島根側に立っていた。ああ、ここが「この子を残して」を著述して原爆病で亡くなった長崎医科大の永井博士生誕の地だと気づいた。

 永井博士は元々、放射線研究の医学者であり、奥様がみどり様という大村地区のカトリックの代々牛飼いの家に生まれた女性と結婚され、ご本人もカトリック信者となられた。放射線研究の自分が被爆し、しかも生かされている事、しかし、奥様は原爆で死亡、自分も放射線を大量に浴び、子供を残して、先行きが長くないことを床に伏せた状況で切々と述べている。「長崎の鐘」の著者も永井博士ではないだろうか。博士は人類の原罪を自分が引き受けていると考えていた。
  私も自分の原罪について考える(ウラン事業に関わった事、医者になれなかった事)。原爆禁止運動に関心があった自分がなぜ、ここまで堕落してしまったのか。

  原爆と原子力の平和利用は問題が別と考えていた自分。原発の安全性を信頼し始めていた。しかし今回の福島第一原発事故で自分の見解が壊れてしまった。

  インド、中国は原爆を保有し、しかも原子力発電に邁進している。彼らにとっては国民の所得向上、国力向上が社会主義の大義に適うのであり、原爆も原子力も丸飲みでOKなのだろう。フランスは社会党政権が大統領になったが、原子力王国フランスをこれからどう舵取りするのか。

 また、ここワシントンD.C.は原子力ビジネスが活発だ。三菱重工ニュークリアー、東芝などビジネスを展開中。ランニング仲間も東筑→九大→三菱重工。独身の彼と話していると若い頃の自分を思い出してしまう。海外に独身で出てきて、一生懸命だな。花嫁募集中と顔が言っている。

 今回の福島第一原発事故については、権益交渉を通じて尊敬するに至ったあのT電力がこの様なザマになり、くやしいやら、情けないやら言葉が出ない。財務的に超優良企業でしかも環境アセスの先駆者であり、尾瀬国立公園の6割方の用地も提供していた企業が。

 私が高校生の頃、水俣病の患者代表とチッソの直接交渉の際、交渉相手のチッソ島田社長は温厚な方でクリスチャンだった様な気がする。地に堕ちた名門チッソで働いて立て直すのも良いのかもと逆説的に考えた一瞬が私にあった様な記憶がある。実際チッソは液晶などの素材メーカーとして立派に立ち直った。我が明善47同期の後藤常務?他優秀な方々が支えたのだろう。

 オバマ大統領の原爆全廃宣言は背景にキッシンジャーやカーター、クリントン元大統領など、共和民主関係ない良識派の一大運動がその背景にある。また、アメリカは国内の新規原発建設には相当慎重な様だ。上院の公聴会でたびたび議論されている。フクシマの事例が真剣に何回も議論及び調査がされている模様。「フクシマ」はチェルノブイリと同義か、それ以上の意味を持つ単語となっている。

 支離滅裂な文章ですが、とにかく書き綴りました。この文章に結はありません。長文となり、すみません。


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Re: 原子力と私 - N

                                                      2012/07/03 (Tue) 05:23:51

身を削るような、苦渋に満ちた肉声の『発言』、ありがとう。貴重な「現場」からの、、、意見でした。

軽々にコメントはできませんが、明氏の『発言』を僕自身の中で、もう一度、考えてみたいと思います。

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